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野生の広報が、ガイアの夜明けを迎えるまで(前編)


今年の2月まで10年間勤めていた会社で、取材を受けた。

私は広報担当だった。
限りなく、野生に近かった。

テレビ番組の取材に応じる。広報として当たり前の仕事をしただけ。

まずなんと言っても、取材してくれたTV局と制作会社の方々がすごい。6割すごい。
そして、会社の努力と魅力がすごい。3割すごい。

でも。

あとの1割は私にくれたりなんかしちゃわないかな、なんつって。

いいよね。
1割すごいって、自分で言っても、今日くらいはいいよね。

裏を返せばその1割が、私の広報人生の中で集大成になりすぎて、精魂ともに燃え尽きた炭の塊から、むくむくと作家に転じてしまったわけだけど。


ちょっとだけ聞いてくださいよ。
野生の広報の話を。


なんで野生の広報になったのか

私は2010年、大学1年生の19歳の時にベンチャー企業の創業メンバーとして入社した。

仕事はなんでもやった。
営業もやったし、デザインもやったし、研修の講師もやった。ベンチャー企業なんて、きっとどこもそんなもんだ。

でも、致命的なくらい社会人に向いてなかった。
自分でもこんな向いてないのかと驚いたくらい、向いてなかった。

会社にいる間、たぶん200回くらいは遅刻した。
半分は寝坊。もう半分はアクシデントだ。

アクシデントっつっても、色々あって。

営業先の大阪本社に行くはずが、なにを見誤ったのか奈良支社に行って、以降一度も会ってくれなくなったりとか。

乗り込んだばかりの電車から急に煙が吹き出し、約束の時間をとうに過ぎても閉じ込められていたりとか。

自分のせいだったり、他人のせいだったり。
はたまた、誰のせいでもなかったり。

会社から貸与されたパソコンを3台は壊した。
全部、手を滑らせコーヒーをキーボードにぶちまけたからだ。

猛烈に反省して泣きながら始末書を書くのだが、あまりにもこぼすため最終的に「仕事しながら水を飲まない」という頭の悪い反省を真面目に綴っていた。ちなみに数日経つと普通に忘れて水を飲み、華麗にこぼし、今度はスマホをオシャカにした。バカ。

あとは、そうだな。

数回しか会ってない人の顔を見分けられない。
軽度相貌失認という診断が下されたのは最近のことだけど、まあ、名刺交換なんて地獄だった。
名刺交換した10秒後、同じ人にまた名刺を押しつけようとしていた。

最近だと、ハリウッドザコシショウと、ザコシショウは別人で、ケンドーコバヤシがハリウッドザコシショウをパロディで演じているキャラクターがザコ師匠だと思っていた。師匠とは、なかなか粋な名前をつけるじゃないかと。「そろそろザコ師匠は本家に怒られるね」と何気なく言い、友人の顔が凍りついたのがきっかけで、やっと気づいた。

ちなみに十数年間、川平慈英とジョン・カビラと博多華丸の見分けもついていない。楽天カードマンをCMで見る度に「これは博多華丸?」と何度も尋ねるので、母が若干ノイローゼ気味になった。

こんな人間を社外に出していいわけがない。
大切なお客さんを任せていいわけがない。

バカの私だってわかる。

足を引っ張るにもほどがあるので、私に安心して任せられる仕事がゴリゴリに減っていった。

「岸田さんには好きなことをやってもらうのが良さそうだね」

上司からお情けで(たぶん)言われて、私なりに考えた。

会社のことは好きだったので、その好きな会社を、みんなに自慢して、好きになってもらうのが一番楽しそうだと思った。そんな仕事あんのか。


あった。


どうやら、広報という仕事が世の中にはあるらしい。

よくわからんけど、広報ならやれそうだ。
広報だからと言って遅刻したり、パソコンに水をぶちまけたりしていいわけがないけど、好きなことならなんとなく頑張れる気がした。

クレラップくらいペラッペラの根拠で、私はたった一人の広報担当になった。あと普通に寝坊はした。

給料をもらってクソブログを書き続ける日々

広報になってから、とりあえず始めたことは、ブログだった。
会社のみんなのこと、好きな本のこと、今日のランチのこと。

オーガニックファンシーお花畑キラキラな眠たいストーリーを展開していた。

誰が読むねん、そんなクソブログ。

なにかしら会社の好きなことを世の中に発信したい!伝えたい!みんな見て!という気持ちが、トップギアで先走りすぎていた。自尊心と承認欲求を撒き散らすタイプの給料泥棒である。

当時の私はアホだったので「こんなにブログ書いてるのに、メディアの取材とか全然来ないな」とか思ってた。一日閲覧10人以下のクソブログに、なぜそんなに自信を持てたのか。

しかも謎に盛った顔写真まで貼りつけていたので、生産者の顔が見えるクソブログだった。正気の沙汰ではない。当時読んでくださっていた方々には、心からの謝罪を感謝を申し上げたい。

ただ一つ、意義があったとするなら。ブログを書き続けることで、ちょっとした語彙や丁寧な言い回しを会得できた。


わからないよ、プレスリリース

メディアの取材を呼び込むためには、プレスリリースという紙が必要らしい。

風の噂で、そんな魔法みたいな言葉が舞い込んできた。ゲームだったら確実にここでクエストが始まる。それくらい、希望に満ちた囁きだった。

風の噂とは比喩表現ではなく、マジである。当時は広報が集まるサロンみたいなものはなかったし、公開されているノウハウもずっと少なかった。サイバーエージェント社のキラキラ広報が脚光を浴びたのは、これよりずっと後のことだ。

一旦クソブログを書く手を止め「プレスリリース」なるものを調べてみると、どうやら企業が発表したいサービスや製品を、文章や写真で説明し、テレビ局や新聞社に送る書類のことらしい。

プレスってことは圧縮されてるから、一畳分くらいの壁新聞を作り、折りたたんで郵送するのかなと思った。のちにプレスは印刷という意味であることを知り、A4サイズの紙が望ましいとも知った。危なかった。

プレスリリースを書き、コピーして、地域ごとに記者が集まる詰め所へ乗り込み、箱に投函する。すると興味を持った記者が、取材の連絡をくれるらしい。

な、なんて画期的で、合理的で、最高の仕組みだろうか!

私はウキウキでプレスリリースを書いた。ただ、百文字で済むことを二千文字で書きたがる女なので、書きたいことが溢れすぎて、A4紙10枚におよぶクソリリースをこしらえてしまった。

それをメディア18社分印刷して持っていったら、私のせいで箱がパンパンになり、叱り散らされてはじめて、プレスリリースは1〜2枚が常識と学んだ。

あたりをきょろきょろ見渡したり、ネットにアップされている知らん企業の知らんプレスリリースを読んだりして、見様見真似で書く日々が続いた。

まさに野生の広報である。
野生であるメリットは、何一つとしてない。

でも、この時の経験が、また活きた。

とにかく文字を削って削って削りまくることを繰り返した。

自分の好きを詰め込んだ文章が、一文字でも削られていくのは、辛かった。
千尋の谷に我が子を突き落とす獅子のつもりで、削った。

この経験がなければ、読みやすい文章を書く技術を持とうともしなかった。
思いつく限りのたくさんの言葉を書いて、そこで生き残った言葉こそ、私が本当に伝えたい言葉であり、読み手の記憶に残る強い言葉だと知った。

言葉を削ることは、私にとって、大切な意味を持った。

そのあとも、ちょっとでもカラフルな方が目に止まるんじゃないかと色鉛筆やラメペンでデコッてみたり、感謝の手紙を怪文書のように添えつけたり、幾度となく迷走をしたものの。

50本書いたら1本だけ、プレスリリースから取材を受けることができた。嬉しかった。

飽きたから、飛び込んできたニュースで妄想する

野生の広報としてサバンナをさまよい始め、2年が経った。

プレスリリースを書いたり、取材応対をしたりして過ごしていたが、唐突にこのままではあかんのとちゃうかと思った。なんかピンときたみたいに書いたが、簡単に言うと、飽きた。恵まれて就いた仕事に飽きるな。

飽きたって言っても、ネガティブな感情じゃないよ。

会社のことが好きだから、もっともっと注目されたいのに、どのメディアもあまり大きく取り扱ってくれないのが不満だった。注目されないというのは、すなわち、この会社を面白いと感じてもらえていないのだ。

面白いと感じてもらうには、面白いことを言えばいいじゃない?
面白いことが社内にないなら、私が作ればいいじゃない?

そう思った私は、世の中がいま、何を面白く見ているのかをやみくもに調べ始めた。

勤めていたのは「福祉」「障害者」「パラリンピック」に関する会社だった。さっそくそれらをGoogleで検索してみたが、面白そうなニュースがない。

すると、Googleアラートというものを見つけた。

これは「福祉」など興味のあるキーワードを登録しておくと、関連するコンテンツやWEBサイトが更新された時、メールで教えてくれる機能だ。

なんと便利なものがあるのか。私は震えた。野生の広報は、道に落ちていたGoogleアラートを拾った。

さっそく登録してみると、数日後に「ある飲食店で、障害のあるお客様を不当に入店拒否して炎上」みたいなニュースが流れてきた。

面白そうなニュースがほしかったのに、なんかめっちゃ重いニュースじゃん。どうしよう。でもとりあえず何かしなければと重い、考えた。

考えたというか、妄想した。

このニュースと、あるいはこの飲食店と、どんなことができたらメディアは面白がってくれるだろうか。いや違うな。私はどんなことをしたら、面白いと思うんだろうか。私が面白いと思うことをやってみよう。

営業を通じて、その飲食店に連絡を入れてもらった。

炎上しているということは、それだけメディアが注目しているということだ。炎上してても構わない。転ぶことより、転んだあとの対応が大切なんだ。スノボと一緒だ。

そう考え、私たちは「二度と同じようなことを起こさないために、みんなで障害者の対応研修をしましょうよ」と、その飲食店に持ちかけた。講師は車いすユーザーである私の母だった。

当時、飲食店でそんな研修を大々的に受けているところはなかった。小規模、回転率重視、バイト頼みの人員、利益重視の飲食店がメジャーななか、障害者への対応を、時間とお金をかけ丁寧に学ぶというのは、とても意味があることに思えた。

ありがたくも先方が趣旨をよく理解してくださり実現したのだが、そこにメディアが殺到した。

読売新聞の夕刊、ダントツで目立つ一面に「飲食店、障害者への対応学ぶ」という見出しが飾られた。炎上の過去を重く受け止めながらも、その過去すらも成長に変える、新たな一歩になった。


そして2013年、3月。
突如として、幸運が舞い降りる。
嵐の櫻井翔さんが、取材をしたいと言ってくれたのだ。

この話は以前noteに書いたが、実は前日譚があるので、次回はその続きから。


週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。